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もの・こと・ひと

明治時代の、わずか一畳の小屋

2017/08/10

 

東京三鷹市のICU(国際基督教大学)の敷地内の一隅に、ちいさな書斎が建っています。

「泰山荘高風居」または「一畳敷」と呼ばれる、たった一畳のその書斎を建てたのは、幕末の探検家、松浦武四郎

松浦武四郎関連リンク「サバイバルにシタッが便利なはなし」

 

当初神田の五軒町にあったものが、移築に移築を重ね、現在の地へとやってきたのは1936(昭和11)年のことでした。

松浦武四郎の死後、まず、一畳敷の噂を聞きつけた徳川頼倫が麻布にこれを移築します。

1923(大正12)年、関東大震災を免れ、1924年に徳川家の移転に伴い代々木上原へ。このとき解体はせず、そのまま移築されました。

そして1936年、三井財閥の重役であった山田敬亮が三鷹に造った「泰山荘」という別荘に移築されましたが、その後土地は中島飛行機(富士重工)に売却され、戦後になってICUに譲渡されます。

1966年、泰山荘の中央部分の庄屋屋敷が焼失してしまい、雑木林の斜面に移築されていた一畳敷は人目に触れることがあまりなかったため、その存在が人びとの記憶から消えうせてしまいました。

ICUの歴史を語る本にも一畳敷については書かれておらず、「あちこちから材を寄せ集めて造った、風変わりな建物」だとしか思われなくなっていました。

しかし、同じものを再現しようにも、二度とできない。

と、語るのはコロンビア大学教授のヘンリー・スミスさん。

1985年から2年間ICUに在籍し、構内にある住まいに暮らしていました。

住まいのすぐ近くに「泰山荘」があり、その一部である「一畳敷」に興味をひかれたといいます。

そしてその価値に気付き、歴史をまとめたのがヘンリー・スミスさんだったのでした。

ICU「泰山荘」のページへリンク

 

現在も人びとをひきつけてやまない「一畳敷」。

それを造った松浦武四郎とは一体どんな人物なのか、ご紹介していきたいと思います。

 

1818年、伊勢(三重県)に生まれた松浦武四郎は、13歳から本草学(医薬に関する学問)を学び、16歳で家を飛び出して日本中を旅してまわることしました。

20歳のころ、僧となったこともありましたが、家族が皆亡くなって天涯孤独になったことで還俗し、蝦夷(北海道)へと探検に出かけます。

その後、公私あわせて6度に渡る蝦夷地探検を行い、伊能忠敬と間宮林蔵によって作成されていたほぼ輪郭のみの蝦夷地の地図に、湖、河川、山脈、村落などを詳細に書き込んで、より正確なものに仕上げるとともに、アイヌ語の地名を元に「北海道(北加伊道)」やその他の郡名などを選定していった、いわば北海道すべての名付け親でもありました。

 

蝦夷地を探検するなかで、アイヌの人びとと多くの交流を持ち、アイヌの人々の暮らしや、蝦夷の生き物をスケッチしたものもたくさん残っています。

出版された蝦夷に関する武四郎の書物は、蝦夷の情報がほとんど入ってこなかった当時の人々の人気を博しました。

 

アイヌの人びとは自然に畏敬の念を忘れない。

漁業においては短い網を用いるなどして乱獲はしない。

熊など神と崇められる生きものについては、捕獲後は神の世界へ送り返す儀礼を執り行う。

「蝦夷訓豪図案」より

 

当時アイヌの人びとは、松前藩による圧政、和人から差別されると同時に、彼らの獲ったアザラシや魚、毛皮などを乱暴に搾取され、抗うことも難しい状況にありました。

武四郎は、蝦夷地の様子を明らかにし、多くの人びとにそれを伝えるよう、アイヌの人びとの危機的状況を調査報告書にまとめるなど、アイヌの待遇改善に努めました。

が、政府は蝦夷地の状況を放置します。

そんな政府を、武四郎は批判し、開拓判官であった自らの職を辞して、従五位(貴族)の官位も返上したのでした。

 

さて、松浦武四郎の半生を簡単に紹介してきましたが、ここからは松浦武四郎と小屋との関係を書いていきたいと思います。


官位を返上した武四郎は、結局その死の直前まで、書物を著しながら旅を続けていたといいます。

我 若きより一ツの行李を肩にし 六十余州蝦夷樺太まで踏徧し、後当地に往来する事殆ど四十年、終にこの神田五軒町を一区の死陀林(しだりん)として住めり

今後ここに一間を建添へ、纔(わずかに)畳一畳を敷く

「木片勧進」より


と、このように全国歴遊ののち住み着いた神田五軒町の住まいの東側に、8年あまりをかけて書斎を作りました。

 

一畳と、それを縁取る畳寄せからなる簡素な差しかけの部屋でありました。

通称「一畳敷」と呼ばれる武四郎の書斎は、旅をきっかけに知り合った人々の伝手で集めた由緒ある木片を部材として集めたもので、庭から入れる窓をふたつしつらえており、そこから風が抜けるという都会的な発想で設計されたものです。

二つの窓のおかげで室内は明るく、狭さを感じさせません。

古材は伊勢神宮の式年遷宮で取り外された材、大宰府天満宮、聚楽第、平等院鳳凰堂、法隆寺、鉄船寺など、全国91箇所から集められ、出処が不明とならないよう、そのいちいちを「木片勧進」に記しました。


松浦武四郎 一畳敷 高風居

(↑外観図。雰囲気が伝わればと思って書いたのですが・・・)


下図が、「一畳敷」の間取りを簡単に書いたものです。

畳一畳のまわりをぐるりと囲む額縁(板の間)があることで、意外に広い印象になっているようです。

松浦武四郎 一畳敷 高風居

 

フレデリック・スタール(1858-1933)は、心底武四郎にほれ込み、世界ではじめて武四郎の伝記を著したアメリカの文化人類学者です。

彼は著書のなかで、「日本人は並外れて非個人的、非主観的で、集団で行動する傾向があるが、趣味の幅は無限に広く、独自の欲求を気ままに満たす人種である」とし、その最たる例として武四郎の一畳敷を取り上げました。

 

さて、そのように自らの欲求を満たすかのごとく、ある意味では贅を尽くした一畳敷の書斎を作った武四郎でしたが、その完成からわずか1年あまり、明治21年2月10日、71歳で亡くなります。

「死後は書斎を取り壊し、その古材で亡骸を焼いて、遺骨は大台ヶ原(奈良県)にまいてほしい」という武四郎の願いは無きものにされ、現在、ICUの敷地内にひっそりと建っているのでした。

 

日本人は、樹木 ―――とりわけ巨樹や銘木への信仰心が篤いといわれています。

その感覚は、なんとなく理解できるんですが、たとえば取り壊す古民家からわが家にやってきた、明治時代の梁や柱の、りっぱな姿を目の当たりにしますと、産廃として焼却処分をまぬがれたこれらの古材をなんとかムダにせぬよう生かしたいと思う気持ちが自然と沸いてきますし、自然のかたちそのままに磨かれた材からは、当時の人の木への情のようなものを感ぜぬには居られません。

 

ところで数多い武四郎の著書のひとつに「竹島雑誌」というものがあります。

これは近年何かと話題の「竹島」ではなく、江戸の頃「竹島」と呼ばれていた「鬱陵島」について書かれた意見書で、当時無人であった「鬱陵島」を領有し、これを有効活用するとともに周辺の海域の安全を確保するよう提案するなど、国防意識の強い武四郎でありました。(現在の「竹島」は当時「松島」と呼ばれていました。)


しかし小屋暮らしとしては、松浦武四郎といえば、蝦夷でも、探検でも、古物蒐集家でもなく、やっぱり「一畳敷」の武四郎なのです。

 

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