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野澤一|日本のソロー・野澤一の詩と人生|森の詩人|100年前の小屋暮らしと四尾連湖探訪

2017/05/29

僕の住む小屋から南方に車で1時間と少し走るとそこには、周囲1.2メートル、最大水深13mの小規模なカルデラ湖が出現します。この自然湖の名前は一般的に、〔四尾連湖/しびれこ〕と呼ばれ、江戸時代には富士八海の霊場のひとつとして数えられていました。

※別名、志比礼湖(しびれのうみ)、神秘麗湖

※四尾連湖の神が「尾崎龍王」という四つの尾を連ねた龍神だったことで〔四尾連湖〕となったと伝えられている


山梨県西八代郡市川三郷町にある〔四尾連湖〕には、牛の頭を湖に沈め雨乞いを行ったという言い伝えから、丑三つ時になると湖と同じ大きさの巨大な牛の生首が浮かび上がるという都市伝説がありますが、これらに並び、〔木葉童子(こっぱどうじ)〕という青年が〔小屋〕を建て、住み着いたという逸話が残っています。

昔の子供たちには、『暗くて怖い湖』としてこの〔四尾連湖〕には近付かないよう言い渡されていたようです。

1904年に山梨県で生まれた〔木葉童子〕こと〔野澤一(のざわはじめ)〕は法政大学在学中に、超絶主義詩人(Transcendentalism/トランセンデンタリズム)にしてエコロジストの〔Henry David Thoreau/ヘンリー・デイヴィッド・ソロー〕に感化され、1928年から6年に亘って湖畔の森で隠棲し、詩作に励みました。

河童のように髪が伸びていたことから野澤は、村人から〔童子〕と呼ばれ親しまれていたようです。

〔童子〕は分かりましたが、読み込みが足りないのか、〔木葉〕の由来は分かりませんでした。もしかしたら、木の葉に写経をしたもの〔木葉教(このはきょう)〕というので、その辺りが関係しているのかもしれません。


妙な縁に促されるように僕は〔野沢一〕の詩を読む機会に恵まれ、遂には〔四尾連湖〕へ行ってみようと思うまでになりました。

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早くに他界した詩人のこと、雨乞いの為に牛の頭を切り落とし供えたこと、巨大な牛の生首が浮かび上がるという都市伝説のことなどが去来し、四尾連湖が近付くにつれ、何だか心細くなっていきました。

ソローに感化され、24歳から6年ほど小屋で生活した〔木葉童子〕こと〔野沢一〕は結核により41歳という若さで亡くなりました。

当時現存していた詩人として野澤が最も尊敬していたのは、詩人・彫刻家の〔高村光太郎〕でした。

〔高村光太郎〕に宛てた手紙は250通(何れも3000文字を超えていた)にも及んだというエピソードは、彼を形容する逸話の中で一際目立ちますが、野沢は〔高村光太郎〕の他にも、〔宮沢賢治〕にも深い感銘を受けていたようです。


少し気になったので、著名な登場人物の年齢を調べてみました。

野澤一:1904 - 1945(結核:没41歳)

高村光太郎:1883 - 1956(結核:没73歳)

宮沢賢治:1896 - 1933(急性肺炎:没37歳)

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー:1817 - 1862(結核:没44歳)

 

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駐車場近くの案内板によると、左は〔四尾連湖〕右へ行くと〔野沢一〕の詩碑が建立されている峠になるようです。

※久しぶりに一眼レフを持っていったのですが、何故か撮ったデータは壊れおり、このようなサムネイル画像のような画素数のデータしか取り出せませんでした。見辛くてスミマセン...


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先ずは〔四尾連湖〕から見ていくことにしました。



いったん小屋から離れた〔野沢一〕は、20歳も年上の〔高村光太郎〕に250通もの手紙を出していたことになります。

〔高村光太郎〕からの返信は数通だけで、殆ど一方通行のやり取りだったようです。

〔野沢一〕は友人に、「同じ東京の空の下にいるので、会おうと思えばいつでも会えるのですが、ぼくは別にお目にかかりたいとも思いません」と語っていたそうです。


殆ど一方通行の文通という行為の意味を自分なりに考えていた時、ふとある記憶が蘇り、点と点が繋がるような感覚に陥りました。

それは〔高村光太郎〕が晩年、〔宮沢賢治〕の生家を頼り花巻で、まるで〔野澤一〕や〔ソロー〕のように〔小屋暮らし〕を始め、そこで7年以上も生活したというエピソードです。

〔高村光太郎〕は、自分が書いた戦争を賛美する詩に鼓舞され、戦地に赴き命を落とした若者達のことを思い、自分を「流謫(るたく)」するつもりで、粗末な小屋暮らしを始めたと聞きました。


〔高村光太郎〕が〔小屋暮らし〕を始めたのは1945年、62歳のことでした。

これは奇しくも〔野沢一〕が他界した年と同じでした。


この時の〔高村光太郎〕の〔小屋暮らし〕とは、〔野沢一〕〔ソロー〕の〔小屋暮らし〕と通ずるところはあったのだろうか、小屋暮らしで生じる不便に直面したときなど、彼らのことを思い出したりはしたのだろうか...

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四尾連湖畔にある、水明荘キャンプ場です。

〔四尾連湖〕〔野澤一〕〔小屋暮らし〕という大きなキーワードが頭にあるので、これらキャンプ場にあるロッジ?ログキャビン?も、僕には小屋生活者の住居に見えてしまいます。

 

僕は彼の書き残した数々の詩を通り越してしまい、彼自身のこと、そして彼が敬愛した巨匠たちとの関係性について、考えることが多くなりました。

〔野沢一〕の人となりを想像するのに良いエピソードは、"一方的に手紙を何百通も送る"というものの他にもいくつかあるので紹介します。

野沢の小屋は一度火事で焼けてしまったことがあります。しかし村人達の協力により、彼の小屋は建て直されました。

野沢の人望の厚さが伝わってきますね。

また、彼には社交的なところがあったようで、村人たちとの交流を大事にし、時には提灯を下げて小屋へ戻ることもあったようです。そのうちに小屋を訪ねてくる村人も出てきたようです。

野沢を良く知る村人は、「モノにとん着しない変わり者だった」「ひとりっきりで山の中で勉強している姿を見て、作品の良し悪しはわからんが、みんな偉い人だと思っていた」と語ったそうです。

さらに彼は、恐ろしいほどに声が大きくて美声だったようです。湖に向いその美声を響き渡らせることが日課だったそうです。


〔野沢一〕の魅力は彼の死後、顕著に現れます。

1976年、野沢の死から31年もの時が経過しているにも関わらず、友人、一瀬稔高村光太郎研究第一人者の北川太一の尽力により文治堂書店 から『木葉童子詩経』が出版されました。

更には1989年、地元の教育委員会や有志の尽力によって、四尾連湖の北に位置する峠に詩碑が建立されることになります。

 

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四尾連湖の北に位置する峠に建立された詩碑

 

〔四尾連湖〕近くに住んでいた当時の村人と同様、僕も〔詩〕に関しては素人同然ですので、分からないことばかりです。

それでも彼の足跡を追ってみて分かったことがあります。

それは2016年の現代から見れば、88年も昔に、〔四尾連湖〕近くの森の中で一人、小屋を建て生活した若者がいたこと、そして彼は自然から多くのことを学び、それを詩に反映させたこと。

彼は早くに死んでしまうけど、彼の魅力は確実に後世に伝わったということです。

歴史は繰り返されるというけど、それは全く同じではなくて、時代に影響されながら少しずつでも変化をしていくものだと思います。

たった一人の短い人生で計れることは知れているけど、だからといって思考を止めて生きていくことは出来ません。

どうせ喜怒哀楽に振り回されて生きるのだから、少しでも多くの納得のいく選択を積み重ね、ちっぽけな命だけど真摯に全うしたと思えるような人生を送らなくてはならないと、改めて確認することが出来ました。

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「私の思想と生命の味わいは百年、又は千年、人間には理解せられずともよく、ただ自然のみが沈黙のうちに私と云う人間が大地に面白く立ったと認めてくれるのが唯一の満足」

これは小屋暮らしをしていた野沢が叔父宛に書いた手紙の中の一文です。

この文章を読んでいると、これは〔野沢一〕の本心なのかと疑問が湧きました。

今の僕には到底理解出来ない境地です。

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「而るにこの文明は進歩してとどまることなくこゝに骸骨のごとく疲れている」「現代以後、人に幸せは少ない」「たとえばこのラジオを聴かねばならぬと云うことは悲しい。新聞もそうである。目はつかれ、心はつかれる」「古へには、人間の心があつた。いまはただ騒がしく一日が暮れ行くばかりである」

小屋暮らしから離れ七年が過ぎても、東京暮らしに馴染めなかった野沢一の言葉です。

大昔の人の言葉ですが、まるで現代のことを書いているようにも読めると思います。

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「叔母が云ふ『あなたの四大不調は先祖のたゝりである』そうである。ひれ伏してこの言葉の深さを享ける。かたぢけないのである、しづかに心に広がる。私は以上の罪人である、たゝりを給ふことは有難さに過ぎないのである。吹きあれる風の中の凍死も、燃ゆる火中死もたらぬ、私は強迫の地獄を抱いて逝く。僅かながらの自らの懺悔行である。不思議の絶したこのあわれさを持参しながら日は過ぐるのである」

これは野沢が自らの死を前提として書いた一文です。


後悔のない人生などはあり得ず、また、社会生活を送ることを余儀なくされた人間にとっては、結局は俗世とは切っても切れない関係であること。満足とは他人と関係する中で生じるものであり、苦しみもまた同様だということ。

もしこの考えがある程度通用するならば、つまり苦しみから逃れる為の隠遁は、満足からも距離を置くことになるのかもしれない。

しかし、自然界の中で享受出来る満足と人間同士の関わりにより生じる満足とは比べられるものなのだろうか。

一つ分かった気になれば、また一つ新たな疑問が湧いてくるという構造は、まるで賽の河原の石積みのように終わりのない禅問答のようなものなのかもしれません。

要するに、僕にはまだ分かったといえることが何一つないのだと言うことが出来そうです。

・おまけ

野沢一が高村光太郎に宛てた手紙に返信は殆どなかったようですが、1940年に発表した『某月某日』という随筆で、高村光太郎は野沢一に対してコメントを残しています。その抜粋です。

「此の人にどう感謝していいか分らない。 二百通に及ぶこの人の封書を前にして私は胸せまる思がする。 [中略] この木葉童子の天来の息吹に触れた事はきつと何かのみのり多いものとなつて私の心の滋味を培ふだらう」

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・最後に

僕が〔野沢一〕を知ったのは、「森の詩人: 日本のソロー・野澤一の詩と人生」を執筆された方からのメールでした。

僕は住所を公開していないので、PDFの状態で送付していただきました。

気を遣わせてしまい、申し訳ありませんでした。

僕にとって、この「森の詩人: 日本のソロー・野澤一の詩と人生」は、共感や思わぬ共通点(例えば、野沢一の住み着いた小屋のサイズは凡そ20平米とあったので、僕の住んでいる小屋と同じだったり、動物肉を食べないとかです。)が散りばめられている不思議なものでした。そして少しだけ淋しい気持ちにさせるものでもありました。

10月初旬にPDFを送っていただいたことを思うと、一冊の本を読んでブログ記事にするまで大分時間が掛かってしまいました。中には繰り返し読んだお気に入りの詩もあったのですが、敢えて詩の抜粋や解釈のようなことを控えることで、何とか記事にすることが出来ました。

この本からは、筆者の〔野沢一〕に対する並々ならぬ情熱と深い思い入れが伝わってくるようでした。

それは正に〔野沢一〕の魅力の成せる業なのだと思います。


この度は良い出会いを与えていただき、ありがとうございました。

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