ごちそう空想|片付けられないレシピのはなし
2016/10/13
(これは02/15/2016の「今日のニテヒ生活」の記事です)
料理の記事の切り抜きや、メモしたノートの切れ端・・・
気づくとレシピ帳はいつもぱんぱんです。
でも、それを参考にしてアレコレ作るのかというのはまた別問題で、大抵ファイリングしてそれでおしまい。
メモが増えすぎたなと思ったときには、レシピの取捨を始めるんですが、
「おいしそう」
「これもおいしそう」
というものばかりで減らすのもひと苦労です。
それもそのはず、大体初めから「おいしそう」と思ってファイリングしているんですから当たり前です。
この「作らないのにファイリングしてしまう」という行動は、自分がレシピを読み物として楽しんでいる結果なんではないかと最近になって思い当たりました。
つまり、幸田文が父のために拵えた酒の肴の話や、向田邦子の家族の食卓の話なんかを読みながら、一緒になってごちそうを味わっている気分になるのと同じように、レシピの手順を追いながら、頭の中で調理して、出来上がりの写真を見て、空想の食事をするのです。
それで満足してしまう。
矢田津世子の「茶粥の記」には、食通で鳴らした「夫」が登場します。
彼は役所の勤め人でしたが、味覚を語らせたら逸品、聞き手たちを「その話で一杯やりたくなった」と唸らせ、また、「栄養と家庭」という雑誌に連載を持っている程でした。
しかし夫の話、例えば鳥取の夏牡蠣の採りたてを塩水で洗って酢でガブリとやる話、初夏の広島の白魚のおどり食いの話、それら全部、うまいもの屋へ行ったわけでもなく諸国の名物を食べ歩いたというわけでもない、彼の空想の味、「ただの話」なのです。
彼は云います、「想像してたほうがよっぽど楽しいよ。どんなものでも食べられるしね」
また吉田健一の「饗宴」は、空想の食べ歩きの話に終始します。
まずは日本橋のしるこ屋へ行ってぜんざいを食べ、雑煮で口直したあとは円タクを飛ばして新橋駅前の小川軒に入る。
濃厚なポタアジュをお代わりして、カキフライを注文する。
そしてお次は銀座の吉野家で新橋茶漬けをさらさらと3杯…という具合です。
これらは、レシピを眺めて空で調理をして、食べたような気持ちになるのと同等だなあと思うのです。
しかしそんな無責任な空想の数々でお腹が満足する訳ではなし、最近は「おいしそう」だけでなく「作れそう」を選考基準に加えて、現実的にレシピを吟味し、実際拵えてみるところまでようやくたどり着きました。
有り難いことに、こちらで手に入る食材、特に青物は都会で私が食べていたものと比べてしっかり味がある気がするので、食べる楽しみも増えるのでした。