[3]イスラム国のアングラツアー|石礫の難民キャンプと笑う銃工場
2017/02/28
爺さんの「Run!」が合図だった。
雲一つなく良く晴れた空の下、僕らはある集落の細路地を懸命に走らされている。
控えめだった爺さんの声は次第に声量を増し、切迫したものに変わっていった。
背中に当たる石礫に押し出されるように、不純物である僕らはこの集落から排除されようとしていた。
いまいち状況を飲み込めないでいる僕らにも、子供たちが投げつけてくる石礫の中に、笑って済ますことの出来ない大きさが混じりだしたこと、その投石の勢いが徐々に増してきていることには気がついていた。
「Run!」と言った爺さん自身が走り出したことで、漸く普通ではない状況に陥っていることを飲み込み、走り出すことが出来た。
僕ら日本人が烏合の衆だということは紛れもない事実だけど、中には変わった奴もいた。
切迫した状況だというのに、「元作詞家」は投石をする子供たちに向かって拳を振り上げ威嚇をし、今にも飛び付きそうな勢いだった。
フンザで「元作詞家」と一緒になり、彼の短気な性格を知っていた数名は一瞬ウンザリした表情を浮かべたけれど、走って逃げなくてはならない状況下ではあっさりと無視することが出来た。
「元作詞家」も、自分とは逆方向へ走る僕らとの距離が開き過ぎるのは困るようで、渋々振り上げた拳を下ろし、皆と同じ方向へと走りだした。
集落に入って直ぐに始まった子供たちからの投石には何の意味があったのだろうか、そういえば入り口で聞かされた爺さんの話と何か関係があったのだろうか。
集落に入る前に爺さんは言っていた。
「この集落はつい最近まで、ウサマ・ビン・ラディンが潜伏していたところだ。」
言った後に一度笑みを浮かべ、そして役者のようにとぼけた感じで続けた。
「いや、まてよ...、彼はまだここに潜伏しているかもしれないぞ...」
話している雰囲気から、ただの冗談だろうと思う。
しかし爺さんの言葉を聞いて反射的に浮かぶのは、「ウサマ・ビン・ラディン」を写真に収めるという無謀な妄想だった。
世界的な賞金首となっていた「ウサマ・ビン・ラディン」なのだから、仮に彼を撮ることが出来たとしても、その撮ったデータを生きて持ち帰ることは出来るだろうか。
これは千載一遇の"好機"であるのと同時に、極めて深刻な"危機"であったに違いないが、これに気が付く前に子供たちの投石が始まり、僕らは"運良く"危険な集落を追い出してもらえることになった。
アングラツアー当日の朝、爺さんに引率され、僕ら8人はローカルバスに乗り込んだ。
数十分も走ったら、もうそこはトライバルエリアと隣接するバザールの一画だった。
先頭を歩く爺さんは要所々々でバザールの人々を紹介してくれた。
アフガニスタンの英雄と紹介された男は左手に数珠を握ってポーズを決めるし、英語の出来ない肉屋の店主は何故かヤギの生首を自慢気に見せつけてきたのだが、少なくとも僕には彼らの意図を読み取ることが出来なかった。
彼ら特有の決まり事や習慣のようなものがあるのかもしれないし、ただの子供じみたパフォーマンスだったのかもしれない。
乾燥した煉瓦色の地面を歩くたびに、土埃が舞い上がった。
真っ白な太陽は頭上の高いところで輝いている。
路上ではガラス張りのショーケースに沢山の紙幣を入れた店に人だかりが出来ていた。パキスタンルピーとアフガニスタンアフガニとの両替商だった。
記念にするのだろうか、数人が無意味な両替をして喜んでいた。
バザールを少し離れた広い敷地にはビニール製の小屋の連なる一帯があった。
「ここがアフガニスタンの難民キャンプだ。」
爺さんに説明されるまで、周囲の変化には気が付かなかった。
難民だと知った後に見渡した薄汚れた子供たちは、先程までとは一転、特別な存在へ変化した。
ビニールシートで作られた家は明らかに家畜小屋以下だったし、ビニール紐に洗濯物を引っ掛けている姿を見ていると、その場所から彼らの生活臭が漂ってくるようだった。
「ここが難民キャンプだ」と言われた時、僕は妙な気持ちの良さを感じていた。
何かがピタリとはまり込んだような心地の良さは、アフガニスタン人の難民キャンプを実際に見る前まで持ち合わせていた、"難民"というイメージが大筋では合っていたこと、そのことによる安心感だったのだと思う。
そして、無邪気な笑顔を浮かべ近寄ってくる難民の子供たちに対して『この状況にその笑顔は似合わない』と酷くガッカリしたのは、持ち合わせていたイメージと大きく乖離していたからなのだろう。
難民の子供たちが僕らを取り囲むように集まってくる。
撮っても構わないかと、念のためジェスチャー混じりで爺さんに尋ねた。
「当然だ。沢山撮ってやってくれ。」
その後も爺さんは、撮影許可を取る度に同じことを繰り返した。
僕ら8人は"薄汚れた貧しい難民の子供たち"の写真を何枚も撮ったが、大人たち同様、彼らの中にも、外国人に写真を撮らせることが、難民生活である現状を打破する突破口になると信じている者もいたと思う。
写真を撮らせる子供たちの中には稀に、そのように思わせる意志のある眼差しを向ける者がいた。
ファインダーの中の少女の、墨のように深い黒色の瞳と目が合った時の動揺。
邪念を振り払うように慌てて感情を抑えたのは、何か深みに嵌ってしまいそうで怖かったからだ。
「ウサマ・ビン・ラディン」がいるかもしれないと言われ連れて行かれた集落の後は、いつの間にか存在していた線路の脇を歩いた。
グルグルと歩いたお陰で、もう自分が何処を歩いているのか分からなくなっていた。
どこからどこまでがが危険なエリアで、どこにいたのが難民の子供だったのか、そんなことも僕一人ではとても判断が出来なかった。
気を抜いていると、なんの変哲もないある乾物屋の大きな麻袋の中身がマリファナ(麻)の種だったり、オピューム(芥子、阿片)の蕾だったりした。
店主は気さくな感じだったし、手伝いの子供は退屈そうに手を動かしている。野菜や果物を売る店と何ら変わるところのない、至って平凡な風景に見えたのは、きっと彼らにとってもまた、この商売は平凡な商いの一つだったからなのかもしれない。
喜んで写真を撮るものはいるだろうけど、ここで買い物をする観光客がいるとは思えなかった。それなのに店主は大きなチャンスが回ってきたかのようにやたらと前のめりの接客をしてくる。
あまりに熱心なので、案外購入する観光客もいたのかもしれないと考えを改めることにした。
もう小一時間も歩いているが、依然僕ら8人は大して打ち解けることが出来ないでいた。
何となく盛り上がらない空気はその後も変化することなく、寧ろ悪化していった。
次に連れていかれたのは、バザールの少し奥まったところにある、小さなビルの薄暗い一室だった。
凡そ50㎡程度の部屋の中は大きく二つに間仕切られ、チープなアルミ製のドアが一つだけついていた。
大きめのタンスやスチールラックを仕切り壁のように使った、事務所のような一室だ。
僕らは壁を背にして置かれた派手な柄の長ソファーと、その足元に置かれたローテーブルの向かい側に並べられた椅子に、それぞれ座るようにと指示された。
日中はまだ暑かったので、少しヒンヤリとしていた部屋の中は心地良かった。
その時部屋にいたのは、灰色のシャルワールカミーズを着た、肌の浅黒い、細身で神経質そうな男だった。
彼は親切そうな笑みを浮かべていた。
揉み手でもしたら似合うかもしれない。
彼は爺さんにも同じ愛想笑いで挨拶をしていた。
爺さんは入り口近くの大きめの椅子を見つけると腰を下ろし、少し偉そうに男に指示を出した。
アルミ扉の向こうの部屋に入っていった男は、プラスチック製のタッパーを持って戻ってきた。それは一抱えもあるほどの大きさで、持ち運ぶのが少し大変そうに見えた。
タッパーの蓋を開けると同時に、彼は「マリファナ」と言った。発音の違いから、「マリワナ」と聞こえる。そして「ガンジャ」「ハシシ」と続ける。どれも呼び方が違うだけで、日本では大麻と呼ばれ、禁忌扱いされている麻薬のことだった。
中を覗くと、黄土色がかった土の塊のようなものが入っていた。何キロあるのだろうかと計算してしまうくらいの大きさの「大麻樹脂」が目前に転がっていた。
次に出てきたのは、プレートのような板状のものだった。
それは5mm程度の厚みでA1サイズほどの板状にラッピングされた「大麻樹脂」だった。
これを何枚も持って来ては、足元のローテーブルの上に積み重ねていく。
今度のものはどれも黒々としていた。
爺さんは彼にどんな説明をしたのだろうか?
引き攣った顔を浮かべ、大量の大麻樹脂を触ったり嗅いだり記念写真を撮ったりしている僕らのことを、ブローカーとでも思っているのだろうか。
何気なく振り向くと、丁度奥のアルミ扉が開き、そこからはライフル銃を抱えた店の男が出てくるところだった。
真っ先に目の合った僕に向かって、男は視線を逸らさずに真っ直ぐ向かってきた。
硬直していたに違いない僕に彼は笑顔でライフル銃を手渡した。
「構えてみなよ。」
店の男はジェスチャーだけでそう言った。
そのライフルは、革命の象徴と言われる、AK-47というものだった。
映画や本の中では有名なライフル銃だけど、当然これまでに実物を見たことは無かった。
グリップ感を確かめたり照準を合わせようと片目をつむって見せた僕はまるで三文役者のように見えたかもしれない。
ある程度触った後に、満足したと分かるように笑顔を作り、ライフルを次に回そうと見渡したけど、積極的な者はいなかった。
皆、愛想笑いを浮かべてはくれるのだけど、楽しんでいると思える表情の者は既にいなくなっていた。
店の男は相変わらず商売人の顔をしてる。
「何か欲しいものはあるか?何でもあるぞ。」「偽札は買うか?」「ペンシル型の銃なら安くするぞ。」
何かしら買うかもしれない客として扱われていることに戸惑いがあった。
こちらの意を返さずに店の男はペンシル型の銃を分解し、使い方を説明している。
持ってみろとペンシル銃が僕の手に乗せられた。
そして彼が言ったペンシル銃の価格は、日本円にして1500円程度だった。
容易に入手できると分かった途端、世界が歪むのが分かった。
買うつもりは毛頭なかった筈なのに、今やペンシル銃は強烈なリアリティを持っていた。
仮にこのペンシル銃を買ったとしたら、次は何が欲しくなるのだろうか。
そんなことを考えていると、店のドアが20cmほど小さく開いた。
その隙間からは全身黒色のシャルワールカミーズを着た、少しぽっちゃりとはしているが、ガタイの大きな男が見えた。
ドアの側の椅子に座っていた爺さんは慌てた様子で立ち上がった。
直ぐに爺さんは男と共に店の外に出て行ったけど、ドアを閉めていかなかった為に僕らの席からは外の様子がしっかりと伺うことが出来た。
隙間から覗き見えている爺さんは明らかに焦っていた。
彼は汗びっしょりでセールスをしたり、必死に弁明する日本のサラリーマンと同じ動きをしていた。
爺さんは胸ポケットの札束を取り出し、数枚を男に手渡した。そして身振り手振りで必死に何か伝えようとしていた。
僕らは爺さんに不信感を抱いた。
石を投げつけられた時から思っていたのだが、大袈裟に言えば生殺与奪の権利を任せた爺さんが実は頼りないと判明したのだから、このツアーのリスクは一気に増したことになる。
ただ、ここまで来てしまっているので、新たに信用の出来るガイドを探して雇うことは出来ない。
結局のところ、誰の掌の上に乗せられているのかが分からなくなったとしても、僕らに出来ることは大して変わらなかったと思う。
沈鬱な空気の中、出来るだけ明るくしようと心掛ける者、余裕さを伺わせる態度でいようとする者、変な空元気の者、様々な思考の交錯があろうとも、この状況下で僕ら8人は平等に無力だった。
次は少し郊外にある銃工場へ行った。
大きめな邸宅のある敷地内に、体育館のように角ばった工場が併設されていた。
明るい日差しに木々の緑が輝き、そこは心地よいペンションのようにも見えた。
痺れるように疲弊していた脳が回復していく。
タイミングが悪かったのか、いつもそうなのかは分からないが、今この工場では従業員の男が一人しか働いていなかった。
その男はずらりと並べられたバイス台の前に座り、丁度金型から抜き出してきたばかりの、まだバリのついた真新しいショットガンのパーツにヤスリを掛けていた。
近寄りがたい風体ではあったけど、彼がずっと笑顔だったこともあり、何か話し掛けてみようという気になった。
当たり障りのない質問をしたつもりだったけれど、彼は笑顔を浮かべるばかりで返答はしなかった。幾つか質問を変えてみても、彼は変わらない笑顔を浮かべるばかりで、最後まで会話は成立しなかった。
僅か数分の工場見学を終え、僕らは工場裏の空きスペースに通された。
そこもまた沢山の植物が心地よい木漏れ日を作っていた。足元の芝生もよく手入れがされている。
これから爺さんたちには日課の祈りがあった。
彼はどこからか持ってきたハンドガンやショットガンの弾などを僕に手渡し、祈りをする少しの間、これで遊んでいてくれと言った。
ハンドガンは、日本でも有名な「トカレフ」だった。
僕ら8人は玩具を渡された子供のようなものなのだろうけど、残念ながら本物の銃でははしゃぐことが出来なかった。
爺さんや銃工場の者の祈りが済んだあとは、トカレフとショットガンの実射が待っていた。
一発撃つには、日本円にして100円程度を支払う必要があるのだけど、彼らからすればこれでも良い商売なのかもしれない。
「元作詞家」と「医者」の中年二人は、以前カンボジアだかフィリピンでハンドガンを撃ったことがあるから今回は撃たないと言った。
更には「暴発が怖い」と、鼻白むようなことを言うので、仕方なく僕が最初の一発を撃つことになった。
トカレフから放たれた弾が地面にめり込んだ瞬間を捉えることは出来なかったけど、周囲の土が小さく弾け飛んだのは見えた。そして何よりも、耳を劈くような破裂音に身体が硬直した。
爆竹のように軽くて乾いた音だった。
銃を撃たないと宣言した二人が顔を見合わせて驚いている。
以前彼らが撃ったことのある銃とは比べ物にならない程の大きな破裂音だったようだ。
結局二人の中年以外は全員がハンドガンを撃った。
ショットガンを撃つ時は、的としてペプシの瓶を立てることになった。
当てたらペプシを奢ってやると爺さんが言った。
ショットガンを構え、的を狙おうと照準を合わせている時、撃った後の反動に備えようと工場の男が僕の肩と腰に手を添えてきた。
片手を上げ、必要ないと断った。
引き金を引いた途端、踏ん張っていた膝がガクンと数cm沈んだように感じた。
間近で見る花火のように、腹の底に響く低音と痺れるような衝撃に見舞われ、全身が熱くなった。
掠っただけで割れることはなかったけど、散弾は明らかにペプシの瓶に接触したのが分かった。
僕は思わず片手を天に突き上げ、声を上げていた。
「坊っちゃん」が撮った動画にも、ショットガンの弾が的に当って大喜びする明るい日本人が映っていた。
映像とは裏腹の真実を、その場にいた者だけは知っていた。
こんなツアーはちっとも面白くはなかったことに。
ここには戦争やテロ、死を連想させるもので溢れていたし、人を撃ち殺す道具である銃に触れて湧き上がった感情は、陰鬱で冷たくて、それはズシリと質量のあるものだった。
僕にとって銃を構えて弾を放つということは、照準の先に自分自身が立つことでもあった。
人を殺す道具に初めて触れて喜ぶ馬鹿な日本人としか映らなかった映像からは、実際に経験することでしか得ることの出来ないものがあると分かった気がした。
銃工場の後は、貧しい子供たちが多くいるというエリアに連れて行かれ、このアングラツアーは終了となった。
そこではパキスタンで良く目にする派手なトラックの装飾を作る子供たちと、鉄屑を集める兄妹を見た。
爺さんはこの兄妹を見た時、アフガニスタンの難民の時には言わなかったことを言った。
「この兄妹は本当に貧しい子供たちだから、どうかチップを恵んであげて欲しい。」
全体的に急いで回った印象の残るツアーだった。まだ昼過ぎの明るい時間に終わり、8人全員が無事にペシャワールの街へと戻って来ることが出来た。
僕らは厳しいバイトを終えた後に急激に仲良くなる若者のようだと思った。
普段は入らないような、少し高級なホテルのラウンジでコーヒーを頼み、ツアーであったことをあれこれと話した。話は尽きず、誰も宿に帰ろうとは言い出さない。
そのまま皆で夕食を食べて漸く、それぞれの宿に戻ることになった。
ずっと影の薄かった「メガネ君」は、実は持っていった一眼レフカメラをツアーの途中、紛失していたことを吐露したのだけど、自業自得だと、本人含め、誰も深刻になる者はいなかった。
誰かのカメラが一台無くなる程度で済んで良かったと思っていたのかもしれない。
もうヘトヘトに疲れていた。シャワーを浴びてゆっくり眠りたい。
そう思っていたのだけれど、意外にもこの物語は素直に終わってはくれなかった。
夕食後、僕が一人だけ方向の違う宿に戻ろうと歩き出したとき、「元作詞家」が後を追ってきて言った。
「明日、二人だけでもう一度昼間のバザールに行って写真を撮ってこないか?あれだけ急かされたんだから、お前だって満足に写真が撮れなかっただろ?」
確かに「元作詞家」は、帰国したら自分の撮った写真で個展を開きたいなどと志は高かったし、僕も丁度カメラが面白くなって来たところだった。
馬鹿な男の、見栄と虚勢の張り合いの先には、丁度よい着地点は用意されているのだろうか。
命を担保に撮る写真には何か映り込むものがあるのだろうか、もしあるのだとしたら、願わくばそれが、僕らの未来を明るく照らす光となってくれないだろうか。
沸々と湧き上がる得体の知れない感情は、ネガティブな思考でさえも容易に飲み込んでいく。
月の明るい夜。
宿の窓から見えるモスクのミナレットからは礼拝の時を知らせるアザーンが大音量で流れていた。
[Pictures]