タイニーハウスピリオディカルズ

タイニーハウスピリオディカルズ|30代で脱サラして小屋暮らしに挑戦するブログ

Journey

[1]イスラム国のアングラツアー|桃源郷から電線束の街へ

2017/02/28

たったひと呼吸のうちに、異国が血液に乗って全身を駆け巡った。

脳みそは早くもパニック寸前だ。

身構える間もなく、カウントダウンが始まる。

ある者はこれを、「チキンレースの始まり」と言った。

 

ゆっくりと、のんびりとしたものを「旅」に期待し、バックパックに何冊も本を詰め込んだ愚か者は直ぐにそれらを二束三文で売り捌いた。

日本での経験は限りなく価値を落とすこと、限られた時間の中で何もかもをまた最初から形成しなくてはならないこと、矢継ぎ早に降りかかってくる選択肢を次々に捌いていくこと。

どこまでも濃密な日々というのが僕にとっての「旅」だった。



「旅に取り憑かれたものは孤立していく」

どっかの誰かの期待通り僕もまた、孤立していくのは確実のように思われた。

旅資金が尽きて帰国すると、まるで酸欠に陥るかのような焦燥を覚え、次の日には仕事探しを始めた。こんな生活を何年と繰り返すうちに、帰国の連絡を入れる友人の数は確実に減っていった。


金が貯まったら航空チケットを買った。

そのたびに孤立を深めるような錯覚に陥るものだから、出国する直前はいつだって神経質だった。

それでも旅を続けたのは、やはり自分の中に骨子といえるものがなかったからに違いない。


差し詰めガイドラインの切れた凧。

地に足がつかずスカスカと空転するような、不安で落ち着かない状態というのが、旅人だった僕のイメージ。


ただ、一人で旅をする限り、自分の悩みや困難は自分のものとして手元にあり、それは誰にも邪魔されず、また奪われることもなかった。

何処かで何かを諦めてしまったのだ。

取り返しのつかないところまで来てようやく、怒った肩がだらりと垂れ、両目の視野は広がった。

広がったその視野が最初に捉えたのは、タイトロープの上で華麗に舞う狂人たちと、そんな連中を満たす、狂った国々のリアルな姿だった。

 

カリマバード(桃源郷フンザ)→ ペシャワール

[1]

長丁場のバス移動は身体も脳も疲弊させる。疲れは思考を雑にした。

精神は退行し、子供じみた妄想の続きをみるようだと思った。
誇大妄想に取りつかれた、自分だけが特別な存在となる世界。

痺れるような細かなディーゼルエンジンの振動、悪路でバスが跳ねる度に身体は浮き上がり、サスの軋む高音は白昼夢から僕を強引に引き剥がした。

シャボン玉が弾けるように、パッと目覚めると、相変わらずの現実にウンザリとした。

僕はもう半日以上もローカルバスの座席の上で、身体を小さく動かすことしか出来ないでいた。窓枠が歪み、完全には閉まらなくなったその隙間から吹き込む砂埃と、まだ馴れたとは言い難いパキスタン人との密着に、ただただ耐えていた。

そして延々と代わり映えのしない砂漠のような土地が車窓を流れていく。


[ペシャワール]という街の名前を聞いたのは初めてではなかった。
かといって名前以外は何もしらない。

数日前までは行くつもりのなかった街なのだから仕方ない。


ついさっきまでいた山村の標高は2500m程度あり、フリース一枚にブランケットくらいしか持っていなかった僕は耐え切れず、多少オーバーサイズだったけど、中古で一際安かったダウンジャケットを買った。珍しく本物の[NORTH FACE]だった。

極端に安いのは、山で死んだ人が着ていたものに違いないと笑われた曰くつきのジャケット。良くも悪くも曰くつきに惹かれる者は一定数いると思う。僕もその一人だとの自負があったけど、今はこのジャケットが邪魔で仕方がなかった。

バスで下山するうちに季節が変わってしまったようだと思った。

目的地であるペシャワールに近づくにつれて、車内は嘘みたいに蒸し暑くなっていった。

標高が一日のうちに2000mほど下ると、これほどまでに気温は変化するのだろうか?

いや、このバスには人が乗りすぎなんだ。



車窓から覗く景色の中に、ぽつりぽつりと文化的な住居が見えるようになった。

ペシャワールへの到着が迫っていることを期待させる。

それから小1時間もしないうちに、まるでスイッチで切り替えたかのように、車窓の景色は一変した。


バスが停車したのは[街中]だった。

それほど広くない車道の両側に隙間なく建てられたイスラム建築、モスクにミナレット、極力最短距離で繋ごうとした為か、素人仕事のように見える電線の束。

電柱と建造物を繋ぐおびただしい数の電線が、この街の印象を決定付けるようだった。

ただ、カリグラフィーを思わせるイスラムの文字と、壁に描かれた幾何学模様の装飾は、素直に美しいと思った。

ようやく目的の地に到着したというのに、バスを降りる気になれなかった。

隅田川の花火大会みたいに、大通りは人々で溢れかえっていたし、奥まった細路地では、集団下校を連想させる列が、進行方向の違う2本の列を作っていた。

街の男たちはみな、ゆったりとしたパジャマのような衣装を着ていた。後にそれはシャルワール・カミーズという民族衣装だと知ることになるのだが、それらはインドの民族衣装である、クルタパジャマと似ていると思った。ワンピースのように裾の長い上着に、歩きやすそうなゆったりとした薄手のパンツ。

シャルワール・カミーズは、全体的に白っぽい色が多い印象だったけど、よく見ればベージュやカーキ、ブルーなどもあり、ある程度はファッションを楽しんでいるのかもしれない。

また、街頭を歩く数少ない女たちは、頭からすっぽりとスカーフを被っていた。

インドと比べると大分地味な色使いだと感じた。中には目の開口以外全てを暗い布で覆っている者もいる。その唯一の開口部もメッシュ状になっていて、じっくりと観察することは憚れるように思われた。

 

日本の路面バスのように、バスは停留所にふらっと立ち寄った。

運転手は「早く降りろ!」と急かしてくる。

目の前の信号が青いうちに通過してしまいたいと思うような、やたらとせっかちな運転手だ。

ここが街のどの辺りなのかさっぱり分からず、これから進む先が全く定まっていない状況で降車することになってしまった。

振り返ると一人の乗客が、目の前の道路を真っ直ぐ進めと静かに指で差し示してくれた。


インドのものと良く似たオート三輪が、この街でもアブラゼミみたいなエンジン音を掻き鳴らし、目前を駆けていった。

インドは極彩色に溢れた派手な国だったけど、パキスタンのバスやオート三輪は、日本のカスタムトラックに良く似た、どこか滑稽な派手さがあった。


右も左も、何もかもが分からないこのような場面では、もういっそのこと惚けてしまいたくなる。

他に手だてもないので、乗客の指差した方角を信じて進むことにした。


移動日にはその存在感を強める60Lのバックパックを担ぐ僕は、荷物運びに使われるのドンキのようにいじらしく、そして歩みは緩慢だった。

その為、オート三輪に轢かれるとしたらこの街なのかもしれないと、半ば本気で身構えることになった。


あと数日で[11月]になる。

空気が乾燥していた。その日は風が強くて砂埃が良く舞っていた。

来る予定のなかった街なので、僕はガイドブックすら持っていなかった。持っているのは宿の名前の書かれた紙片だけだった。

ガイドブックがないのであれば、ガイドブックに取り上げられない街に滞在する時と同じようなことをするだけだ。

僕は道ゆく人々に、手当たり次第に声を掛けていった。そして限られた言葉しか登録されていないロボットのように、同じ言葉を延々と繰り返した。

英語で会話する習慣のないローカルの人々にしてみれば、ボディーランゲージの大袈裟な、ただホテル名を連呼する、たまに見掛ける外国人旅行者程度に思われているのかもしれない。

ただ、体当たりで旅をする僕にとっては、このやり取りの一つ一つは、魂で交流するような、臨場感の伴うものだった。


新しい環境に足を踏み入れた瞬間から、膨大な情報の処理に追われることになるストレスと、長距離移動による疲弊は、不思議と気持ちを高揚させた。

何日も寝ないで仕事をした時のような、あの薄気味悪い元気の良さと同じ類だと思う。

だから、目当てのホテルが目の前にあると分かった時、僕はみっともないくらいに大袈裟に、「Thank you!Thank you!Thank you!...」と、感謝をバラ撒くことになった。


辿り着いた安宿には僕を除いて他に旅行者はいなかったのかもしれない。しんと静まり返ったレセプションで店の者が現れるまでの間、辺りを見渡したけど、一向に人の気配は感じられなかった。

ようやく現れた客である僕を見たオーナーは、意外にも少し驚いた顔をした。

TVでは連日、「バグダッド」「ウサマ・ビンラディン」「大量破壊兵器」などと、イラク戦争のニュースが流れ続けていた時期に、観光目的でイスラム国にくる奴は少し物好きなのかもしれない。

パスポートを出してチェックインを済ませると、重たいバックパックをシングルベッドの上に投げ出し、一番使用頻度の高い上段のジッパーを開け、石鹸とタオルと歯ブラシを取り出し部屋を出た。


壁から水道管が突き出ているだけのシャワーヘッドだったけど、こういうところは嫌いではなかったし、旅に浸れる瞬間というのは、案外こんなところにあるのかもしれない。

しゃがみ込んだ格好でシャワーに打たれた。

気が抜けると同時に、忘れていた疲れが表出した。

今日の記憶、蓄積された疲れが一緒くたに蒸発してモクモクと室内に充満するように満ちていった。

新しい記憶だからなのかもしれないけど、最後まで残って離れなかったのは、「Thank you!Thank you!Thank you!...」と、宿が見つかった時にみせた軽くて浅くて世間知らずで隙だらけの、いわゆる日本人然とした、みっともない自分の姿だった。


一時でも行動を共にする仲間が出来た場合、あのような姿を見せてしまうことを、僕は恐れていた。

旅をしていると、戦場が職場のカメラマンやライター、またはJICAのような人たちに出会うこともあり、そのような時、ただのバックパッカーである僕は、何だかその場にはいたくないような気になった。

彼らと僕とでは決定的に何かが違い、それによると僕はどうしようもないほどに旅のビギナーで、彼らに迷惑を掛ける可能性の高い、目障りな存在なのだと、変なコンプレックスを植え付けられるような気さえした。

どんなに頑張ったところで、背景のないバックパッカーであるうちは、ビギナーを脱することは出来ないのだと思わされる何かがあった。だからなのか、そんな姿を誰かに見られることを何より恐れるようになっていったのだと思う。

 

気の合う仲間と旅をした経験は確かに良い思い出だけど、嫌な記憶を忘れているだけで、長く行動を共にするにつれ、一人旅に切り替えるタイミングを計るようになるのが常だった。

これは一人旅に憑りつかれた僕らにとって避けられない決定事項のようなものだ。

僕らは、各々が胸に病んだ相棒を住まわせていたのだと思う。

こいつは事あるごとに自分と向き合うようにと、そうしなければならないと説得してくるのだ。


一人旅が多くなった理由はそれだけではないけど、少なくとも僕は今、パキスタンはペシャワールという街に辿り着き、そして何故この街に来ることになったのか、今一度冷静になって数日前の出来事を思い返す必要があった。

 

桃源郷フンザの話を聞いたのは確かインドのヴァラナシだった。
去年の今頃、自分にはとても関係のない国だと思っていた、パキスタンというイスラムの国。

風の谷のナウシカの舞台?杏の花が咲き乱れる?アレキサンダー東方遠征軍の末裔?8000m級の連峰に囲まれている村って前情報だけでも高揚出来た。

旅のさなかでいることは、もうこれしかないのだと思い続けることでもあった。

眠りから覚めた瞬間から、目に映るものは何もかもが繊細で、出来事はいちいち刺激に満ちている。

僕が旅に寄せる思いはいつだってそんな調子だったから、憧れの地の一つ、フンザに滞在していた期間、僕は明るかった。


20平米程度の部屋にはベッドが4つ備え付けてあった。

同じような部屋が他にもいくつかあり、それが1階2階と続いている。

どこかのベッドから抜けだし、冬特有の尖った空気の中、女性の指先のように見える山の頂を僕は毎朝、少年のような気持ちで見つめていたし、途中二人きりになって歩いた氷河は忘れられないプラトニックなアヴァンチュールの思い出となったし、ここで知り合った連中とは、帰国後も何度か再会を果たすことにもなった。

確かに桃源郷と言われるだけのことはあり、フンザでの日々は夢心地で過ぎていった。


この楽しかった思い出を抱えて、とっととインドへ帰ろうと思っていたのだが、何の因果か、パキスタンはペシャワールでのアングラツアーの話が舞い込んできたんだった。

ここが桃源郷でなかったら、僕は耳を貸さなかっただろうと思う。

僕はこの甘い日々に飽々していたんだ。



僕が聞いた話はこうだ。

水先案内人は初老の男。
安宿の集中する街中を歩いていればそのうち出会えるらしい。
彼に金を渡せば、「トライバルエリア」に連れて行ってもらえる。

「トライバルエリア」は非合法の見本市のような場所らしい。

 

アフガニスタンとの国境間にある部族地域、トライバルエリアは、パキスタンのどの州にも属していない。

それは法の力が及ばないということでもあった。


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[Pictures]

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